創造のあそび場

ボーダレスなストーリーをお届けします

ずっと、忘れないで。写真がつなぐ人と街の絆。あるカメラマンの決意

 タイトル

「幸せの観覧車」

 

さて、蒲田作品の2作品目をご紹介します。

 

 

この作品は、最初に写真館で物語を紡ぎたいとの私の強い思いから生まれました。

商店街には、というか、どこの街にも必ず、写真館ってありますよね。

そして、最近読んだ、写真館の店主さんの新聞記事に強く魅かれたました。

 

☆☆その記事の概要は(長文になりますが、感動なので、そのまま掲載します)☆☆☆

東日本大震災から8年目に入った、宮城県本吉郡南三陸町で写真館「佐良スタジオ」を営む佐藤信一さんはカメラのレンズを通して、震災直後からの“ふるさと”南三陸を見てきた。その思いを紹介する。~

◆佐藤さんのコメント◆

震災から7年。私にとっては早かった。あっという間の7年でしたが、40年分以上の経験をしたと言っても過言ではありません。

震災が起こった時、カメラバックを持って避難したのが全ての始まりです。

「よくカメラを持ち出せましたね」と言われますが、私は町の写真屋です。カメラを持ち歩くのは自然な姿です。

避難した後、町を眼下に見下ろせる場所に行き、試し撮りのつもりで何げなくシャッターを切りました。この一枚が、津波が襲う前の“最後のふるさと”の姿になるとは思わなかった。

直後、けたたましくサイレンが鳴り響き、ニュースで何回も報道された、防災対策庁舎からのアナウンスがはっきり聞こえました。水位はどんどん上がり、アナウンスの声もどんどん大きく荒くなります。「至急、逃げて!」絶叫でした。大変なことが起こる予感はありましたが、あそこまでの被害は想定していなかった。

私は津波が襲う町を肉眼で見た記憶がありません。レンズを通して映画を見ている感じでした。

目の前で起きている事が現実と思えず、夢の中にいる感覚でした。

撮影に当たっては、いろいろな葛藤がありました。

一言では説明できない事です。

避難しているひとたちも、津波にのまれようとしてるひとたちも、町のほとんどの人は知っています。津波が町を破壊し始めた時、「撮るのをやめよう」と思ったのも事実です。「写真を撮っている場合か!」というピンと張り詰めた空気もありました。

私は撮りました。「この一大事を残すことができるのは自分しかいない」と思ったからです。「何で撮るのか」と責められても、撮らなければ残らないし、後で「撮っておけばよかった」といって済む話ではない。「撮るだけ撮ろう。その後、あの写真は見たくないという意見が多ければ公表しなければいい」と自らに言い聞かせました。

震災当日の写真に、自分の心は一切、入っていません。

完全に第三者でした。傍観者でした。それぐらいの気持ちでなければ、シャッターを押せなかった。自分の町が壊され、自分の家が流され、町の人が津波にのまれる写真を、心を込めて撮ることなど絶対にできません。それでも撮ったことで、ものすごい罪悪感にさいなまれました。

家族や地域の人の安否を確認できると、震災に立ち向かう人々や、復旧・復興に進む町の姿を、どうしても写真に収めたいという気持ちが湧いてきました。首からカメラを提げた私に、同じ避難所の人が声をかけてきました。「全部、撮ってきてね。ちゃんと残さないと駄目だから」。また沢山の人から「(津波に流された)家の跡地も撮ってきてね」とも。町の人々の言葉が、私の背中を押してくれました。

がれきの中を自転車で回り、町の全域を撮影しました。写真には可能な限り、山並みなどの背後の風景を写し込むよう心掛けました。町の人が写真を見た時、「ここは、あの場所だ」とわかってもらうためです。

被災地以外から来た写真家は、自分がイメージした写真を撮るために、イメージにあった被写体を追いかける傾向があります。私は同じ被災者ですから、自分が意図した写真など、とても撮れません。同じつらい境遇にある人間の一人として、被災者の目線で「素直に」「背伸びせず」撮っています。こうして撮った写真の中に、共に生きる人の顔が写っていれば、それが前に進む励みとなるのではないでしょうか。

震災後、私が掲げるテーマが二つあります。

「写真の力を信じて」---ボランティアの方々が被災した写真を洗浄し、所有者に戻す催しをした時の事のこと。自分が写った写真はありませんでしたが、自分が撮った写真はたくさんありました。仕事柄、撮った写真は覚えています。「佐良さんに撮ってもらった、うちの息子の七五三の写真がでてきたの」と涙を流して喜ぶ姿に、写真の力を改めて痛感しました。町の人と一枚一枚、思い出を刻み残していくことが、私のライフワ-クであると、強く感じたのです。

「伝えてゆく」ーーー被災者は100年後、誰も生きていません。今、震災の風化や語り継ぐ難しさが指摘されています。語り部の力は確かに大きいですが、100の言葉よりも一枚の写真で分かる場合がある。ならば、一番つらい時の写真を残し、「町に何があったのか」を知るきっかけをつくらなければならない。私は、写真が語らなければいけないと思っています。単なる記録写真ではない、撮った時の情景も気持ちも伝えることができる、自分の想いを表現した写真という事です。

昨年3月、私がレンズを通して見てきた「南三陸」を紹介する写真展示館「南三陸」を紹介する写真展示館「南三陸の記憶」を、写真館に作りました。この一年で1万2000人以上が訪れました。私の写真を見た二人組の夫婦が一言、しみじみと言いました。「ここに入らなきゃ、何をしに来たのか分からなかった」。修学旅行で福岡から来た高校教師は、「これを見ないと被災地に来た意味がない」と、30人ほどの生徒さんを連れて来てくれました。

写真展示館は、南三陸さんさん商店街にあります。今は観光地化してますが、ここは震災前、どこにでもある普通の商店街でした。震災で全て壊滅しましたが、皆様の支援をいただき、同じ場所に高さ10メートルの盛り土をして再出発したのです。

被災地の私達には今、「忘れられているのではないか」という危機感があります。

震災から7年がたち、震災を知らない世代も増えています。被災者も年齢を重ね、後の事を考えると、「今のうちに伝えたい」という気持ちが強い。ですから、どんな理由であれ、町を訪問してくださるのは本当にありがたい。

そのうえで、せっかく来たのだから、被災地の「今」を直視してください。津波被害の爪痕が残るこの町を、自分のふるさとが被災したら、どんな気持ちになるか、心の中で問い掛けてほしいのです。そして、自分が見たこと、感じたこと、聞いたことなどを、自分の言葉で伝えてください。震災の語り部とは被災者だけではありません。

被災地に来てくださった全員が語り部なのです。

私は町の写真屋です。震災を撮るために生まれてきたカメラマンではありません。

残したい写真は人々の肖像です。入学式や結婚式など、人生の節目の記念写真や日常の姿です。見た人々が笑顔になり、元気になり、勇気づけられる写真です。こうゆう写真を一枚でも多く残していくことが、町の記録となる。今回のような災害が起き、皆が途方に暮れた時、一人一人の「支え」になる。こう固く信じています。

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この写真館は、蒲田西口商店街を抜けた所にありました。見つけた時は、『やったー!』と心で叫びました。そして、この写真館を舞台にお話を書こうと決めました。

 

なので、主人公はこの写真館の3代目のイケメン、カメラマンです。

「あなたとこの街で暮らしたい」の主人公の幸治さんとは、中学の同級生という設定です。

作品を読んで頂いている方は、分かると思いますが、幸治さんとさつきさんが、婚約の写真を撮りにこの写真館を訪ねて写真を撮っていますし、二人の結婚式の写真も、イケメン、カメラマンが撮影担当してます。

この様に、物語が繋がっています。

 

そして、この物語では、蒲田は、犯罪多発地域とあり、地域を愛するというメッセージを、主人公が主催する防犯ボランティアとして登場させました。

先に紹介した南三陸の写真館店主の佐良さんからのメッセージも入れました。

 

佐良さんのお話は、改めて、物語にしたいと思いますし、その上で、いつか南三陸の写真館にも取材を兼ねて訪れてみたいです。

 

このような背景を知りつつ、物語を楽しんで頂けると嬉しいです。

 

作品の『幸せの観覧車』全文も掲載してますので

良かったら、読んでみてください。

 

では、 今日も、スマイルな一日でありますように💛💛💛

                       スマイル・エンジェル☺☺☺